佐藤春夫 『殉情詩集』
その「殉情詩集」と名づけた詩集の自序にこうあります
われは古風なる笛をとり出でていま路のべに來り哀歌(かなしみうた)す。節古びて心をさなくただに笑止なるわが笛の音に慌しき行路(こうろ)のひといかで泣くべしやは。 たとひわが目には水流るるとも、しらず、幾人かありて之に耳を假(か)し、しばしそが歩みを停むるやいかに。 嗟吁、わが嗚咽(おえつ)は洩れて人の爲に聞かれぬ。われは情痴(じょうち)の徒と呼ばるるとも今はた是非なし。
春夫節の美文です。
この切ない思いは「同心草」の中の次の詩ににじんでいます。
水邊月夜の歌 せつなき戀をするゆゑに 月かげさむく身にぞ泌む。 もののあはれを知るゆゑに 水のひかりぞなげかける。 身をうたかたとおもふとも うたかたならじわが思ひ。 げにいやしかるわれながら うれいひは清し、君ゆゑに
一人寝の夢さえも恋人のことが思われます。
或るとき人に与えて 片こひの身にしあらねど わが得しはただこころ妻 こころ妻こころにいだき いねがてのわが冬の夜ぞ。 うつつよしはかなしうつつ ゆめよりもおそろしき夢。 こころ妻ひとにだかせ 身も靈もをののきふるひ 冬の夜のわがひとり寝ぞ
春夫と千代夫人のむつまじくもあり、悲しくもある心の様を海辺の焚き火の情景に映したとても叙情あふれる詩でした。
海辺の恋 こぼれ松葉をかきあつめ をとめのごとき君なりき、 こぼれ松葉を火にはなち わらべのごときわれなりき。 わらべとをとめよりそひぬ ただたまゆらの火をかこみ、 うれしくふたり手をとりぬ、 かひなきことをただ夢み、 入り日のなかに立つけぶり ありやなしやとただほのか、 海べのこひのはかなさは こぼれ松葉の火なりけむ
「同心草」最後の詩はどう捉えたらよいのでしょう。
道ならぬ切ない恋をする二人の姿が、一枚の絵のなかに写し取られたたかのような一編です。
まるで、時が止まったような美しさです。
まるで、時が止まったような美しさです。
感傷風景 あなたとわたしは向ひあって腰をかけ、 あなたはまぶしげに西の方の山をのぞみ、 わたしはうっとりと東の方の海をうかがひ、 然しふたりはにこにこして同じ思ひを樂しむ。 とありし日のとある家の明るいバルコン。 何も知らない家の主人にはよき風景をほめ、 ふたりはちらちらとお互の目のなかを樂しむ。 戀人の目よそれはまあ何といふ美しい宇宙だろう。 全くあなたのその目ほどの眺めも花もどこにあろう・・・ おお、思ひ出すまい。ふたりは庭のコスモスより弱く、 幸福は卓上につと消えた鳥かげよりも淡く儚く、 嘆きは永く心に建てられた。あの新築の山荘のやうに
佐藤春夫の魅力はまだまだ尽きませんが、ほんの少しでもお伝えできたでしょうか。