素九鬼子 『旅の重さ』

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「旅の重さ」
この作品を初めて読んだのは、たしか主人公と同じ、高校生のころだったと思う。
父の本棚にあったのを、かってに失敬してそのまま父の部屋で読み始めたのだが、なんと言えばいいのだろう。
母親への手紙という形式で綴られているこの少女の旅の記録は。

行間から立ち昇る夏の匂い、草いきれ、遍路たちの体臭。
少女の運動靴が踏みしめる海辺の道、吹き渡る潮くさい風。

普通の高校生活に不満がないと言えば嘘になるけれど、それはそれでしょうがないものだ、と諦めていた私の頭と心にぐさりと突き刺さるような小説だった。

作者、素九鬼子(もと くきこ)はきわめて異例な形でデビューした作家である。
由紀しげ子という作家がなくなり遺品を整理していた「作品」誌の編集長が、送りつけられてきたようなノートの原稿を見つけだしたのである。
編集長は、その原稿「旅の重さ」に強く惹かれるものを感じ、作者を探したそうであるが、遂に素九鬼子は現れることがなかった。
その後筑摩書房が原稿を引き継ぎ、作者不詳のまま出版することとなった。
その時、新聞広告で呼びかけた結果、ようやく作者のもとに出版が知らされたのである。

その後、順調に作家活動を始め、何度も直木賞の候補に選ばれるなど、活躍していたが現在彼女の本はすべて絶版となり、手に入れるには古本屋か、図書館を利用するほかないという現状だ。

私は「旅の重さ」しか読んではいないが、この本一冊でもいいからどこかで再版して、もっと読まれて欲しい作家だと思う。

すべてが独白調で書き上げられている。
すべてが旅の、少女の、出会った風景の匂いを放っている。

書きだしはこうだ。

ママ、びっくりしないで、泣かないで、落ち着いてね。そう、わたしは旅にでたの。ただの家出じゃないの、旅にでたのよ。四国遍路のように海辺づたいに四国をぐるりと旅しようと思ってでてきたの。さわがないで、騒がないでね、ママ。いいえ、ママはそんな人ではないわね。

16歳の主人公は、絵描きの母と二人暮らしである。母は自堕落さと芸術家の心を併せ持つ女で、小さな村の中で2号さんとも売春婦とも思われるような暮らしをしていた。
夏休み前の試験が始まろうとする7月初め、少女はリクサク(原文ママ)と母親が男からもらった金9000円を持って着の身着のままの旅にでる。

旅行ではなくまさに放浪の旅である。

ああ、ママ、旅にでてはや3日になるわ。ああどんなに楽しいことでしょう、布団の上に寝ないで、草の上に寝るということは。

そして、少女は水源池小屋に忍び込みそこで一夜を過ごすこともある。

夜中に目が覚めたら、杉皮の破れ目からちょうど月が見えたわ。朱い大きな月でね、まるで大きなミカンのようだった。耳を澄ますとね、山の音、地の音、海の音などが聞こえるのよ。

夜が明けると、リクサクを背負ってまた歩き出す。そこでは、いろいろな村人、遍路、水商売の男女などとの出会いがある。
言葉をかわすこともあり、通り過ぎてしまうだけのときもある。
でも、少女の鋭くとぎすまされた観察の目は、彼らをくっきりとした真昼の影のように描き出す。

瀬戸内海側から始まった旅は山を越えて太平洋側の海辺へと移っていく。

1964年の四国の漁村は、まだまだ貧しく出会う村人たちも垢じみた着物を着て、子供らは頭に虱を飼っていたりする。
砂糖が高いので甘くない塩っぽいおはぎがごちそうだったり。
そんな貧しい村から村への旅の途中、熱を出し、行き倒れてある男に助けられた少女はまるで野良猫のように男の長屋に居ついてしまう。
50に近い歳の漁村に住む男と、16歳の少女の不思議な同棲生活がはじまる。
この長屋の男の部屋の描写もまたよい。

家の中には家財道具らしいものなど少しもありません。戸棚ひとつなく、ラジオもないの。この家にあるものといえば、履き古した下駄とか古びたゴム靴とか破れた番傘とか七輪とかです。
でもね、この生活からいわゆる貧乏というものが顔をだしていないのが不思議なの。
なんだかこの家の昼間でも薄暗い部屋の中には、一種の庵の雰囲気があります。最初この部屋の中で意識をたしかにした時から、それを感じていました。夕飯を食べながら、壁にべったり張りついたくもの糸の七色に光る美しさや、頭上に垂れ下がった電気の笠の古典的な三角形の美しさや、猫の目の豪華さや、かつおのさしみのまだらな鈍い朱さや、じぶんの箸を握った手の細長い棒切れのような影の美しさなどを次々と眺めているうちにそれを感じたのです。

まるで静謐な伽藍にも劣らないようなこの美しさはどうだろう。

そして少女は男の家に住み、男の食事を作り、世話を焼きながら自分の居場所にしていくのだが、その生活について母にこのように書き送る。

ママ、この生活にわたしは満足しているの。満足が心を突き破りそうなほどです。この生活こそわたしの理想だと思っているの。この生活には、なにはともあれ愛があり孤独があり詩があるからです。けれどわたしは決してこの生活に心を許しはしないわ。いつこの三つが争いをはじめるかしれたものではないからです。常に用心が肝心です。常にこの三つの比重の均衡に目を光らせていなければなりません。

文学というしゃらくさい言葉、でもこの作品を読んで感じたのは、文学のもつ力である。
言葉のひとつひとつが、放浪する少女の心の動きとその身体を吹き過ぎていく風の動きを紡ぎだして、読む人を四国の海辺へ誘ってくれる。
山の音や海の音が私の耳にも聞こえてくるようだ。

旅にあこがれた歌人や詩人はあまつあれど、この小さなやせっぽっちの少女ほど、旅の重さを教えてくれた詩人はいなかった。

この作品は現代の「放浪記」といわれ、1972年、高橋洋子主演、斎藤耕一 監督で映画化された。青春ロードムービーの傑作としていまでもDVDで見ることができる。

追記
朝倉摂装丁のこの本には作者、素九鬼子のイラストもふんだんに入っている。