佐藤春夫『秋刀魚の歌』

あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば
伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉(ゆうげ)に
ひとりさんまを食らひて
思ひにふけると。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)を したたらせて
さんまを食ふはその男がふる里の ならひなり。
そのならひを あやしみ なつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎ来て 夕げにむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする 人妻と
妻にそむかれたる男と食卓に むかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男に さんまの 腸(はら)をくれむと 言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは 見つらめ
世のつねならぬ団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証(あかし)せよ かの一ときの団欒(まどゐ) ゆめに非ずと。

あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば 伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児(をさなご)とに伝へてよ
―男ありて
今日の夕げに ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか 塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふは
いづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは 問はまほしくをかし。 


谷崎潤一郎夫人千代との三角関係に陥った時の、春夫の詩です。
詳しくはじーこさんのブログを参照してください。

父に捨てられた女の児、夫に捨てられた妻、そして春夫の3人のつつましい食卓です。