歌野晶午 『世界の終わり、あるいは始まり』

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小学生ばかりを狙った連続誘拐殺人事件が勃発した。新興住宅地で家族と共に平和に暮らす富樫修は、小学校6年の息子の部屋で、事件にかかわるある物を目にしてしまう。その後、次々と見つかる息子犯人説への物証。「なぜ、我が子が」という戸惑いと、息子の将来だけでなく、自分も家族の未来も破滅するという恐怖。免れようのない悲壮な現実を目の前にしたとき、人はあらゆる知識と想像力を総動員して逃げ道を探す。自分を守るため、そして家族を守るために。 

最近、歌野モードに突入してしまって、この作品をさっそく手に入れ、続いて「ROMMY」を読んでしまった。
なんというか、タイプとか傾向が作品ごとに変化する、かなりのくせもの作家のようで、さて今度はどんな手で驚かせてくれるのだろう、と期待が高まっている。
「葉桜~」の感想は「ヤラレタ~」「騙された」が第一にきたのだが、この「世界の終わり~」は、またさらに唸らせてくれる構成だった。




以下内容に触れることになりますので、未読のかたはお読みにならない方がいいかと思います。




 粗筋はAmazonのを借用させていただいたが、本書の面白さはその中にある「想像力」である。いや、これはとてつもない怪作、傑作だ。
 こんな苦労しなくても充分面白い普通のミステリ、サスペンスになったと思うのだが、歌野さんの仕掛けは、どこまでもしつこく読者を引きずり回してくれるのだ。今度こそ、と思いながら父親が泥沼でもがき苦しむ様を追体験する読者。何度も繰り返される仮想世界。
 未成年の凶悪犯罪というテーマは、妄想の中で繰り返されるごとに、深く掘り下げられ、読む者の心を重くさせる。
 主人公の心理もまた、最初の平和で無責任な小市民という薄っぺらな人間像から、繰り返されるシミュレーションのなかで、利己心、保身をあらわにされていく。そのへんは、この父親像がリアルに浮き上がって、正直好きになれない人物だった。妻も典型的な俗物に描かれていて好感を持てないキャラである。
しかし、序盤の展開がいきなりガクっと落とされたあたりから、この父親が自分を偽らずに見つめ始める。
「もし、息子が冷酷な連続誘拐殺人犯だったら」
疑惑が徐々に水位を上げていく。信じたいのに信じきれないほどの物証がぞろぞろ出てくる。
しかし、どんなに智慧をしぼり、計略をめぐらしても最後にたどりつくのは破滅である。


この作品を読み終えて、読者はこのタイトルにやっと思いいたることとなる。そう、「始まり」を示唆して、ラストは青空を落ちてくる白球で締められているのだ。
ミステリとしていくらでも完結させられただろうこの作品を、ここで終わらせる作者の意図は。パンドラの箱を開けてしまった父親は、最後に箱の中に残っていた希望を見つけられたのだろうか。

「葉桜~」も驚かされ楽しませてもらったが、同じ作者から、まったく違った感動を貰うとは思わなかった。ミステリの体裁をもっているが、チャレンジャー歌野の面目躍如の傑作小説だと思う。