あけましておめでとうございます

皆様、あけましておめでとうございます。

ぎりぎり七草に間に合いました。

2009年もよろしくお願いいたします。


一休 宗純は「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」なんて仰ったそうですが、この年になると若い頃のように、つまらない本をがまんして読もうという気合いが本当に無くなっていることに気付きます。
要は、あとどれだけの本が読めるのか、という残された時間の問題なんですね。
面白そうだと思って手に入れた本でも、何ページか読んで向かないと思うと潔く挫折してます(笑)
昔はけっこうしつこく「もう少し読んでみたら面白くなってくるかも」と、粘っていたのですが、このところ、すっかり粘りもなくなってきました。

まあ、別に誰に頼まれて読んでるわけでもないので、どうでもよいと言えばよいのですが。

しかしながら、昨年の暮れに早川書房の「SFハンドブック」をパラパラめくったりしているうちに、またぞろ変な向学心が芽生えてしまったのです(笑)
あわて者というか、そそっかしいというか、昔から無駄なことにヒョコッとハマル傾向がありました。
一生懸命やっても何にもならない事に、のめりこむ。
やらなくてもいいのに、情熱を注ぎ込む。

まったく、この本のこの部分になんか心を揺さぶられてしまったんですよね~。
ちょっと長いけど、伊藤典夫先生の文章を引用します。

 人間が何かに出会ってそれを趣味にしたり、何かに共感したり、愛したりするのは、それに呼応するパターンがうちに用意されているからだと思う。「心の琴線にふれる」とか「波長が合う」とかいうが、あるタイプの女の子を好きになるのも、SFや野球が好きになるのも、ある意味ではみんな同じだ。内部で何かが反応すれば、その反応の強弱や質に応じて出会ったものにのめりこんでゆく。
だが、興味のおもむくまま、感情移入や快不快原則だけで読んでいくと、SFの大きな枠組みが見えにくくなってくる。これは自戒にことばでもあって、いまぼく自身が、ぼくの内部でこぢんまりとまとまっていた枠組みを破ろうとしているところだ。それにはより深い層での共感が必要なのだが、それはこれから自力で掘り起こしていかなければならない。

ね、ね、かっこいいではないか。あの伊藤大先生ですら、まだ枠組みを破ろうとしているのだ。

そうか、より深い層での共感が必要なのか!と、さっそくあわて者の私は、今まで素通りしてきたSFの名作たちを読んでないことが、なんとももったいないような気持ちになってしまったのです。
まさに、最近は「興味のおもむくまま、感情移入や快不快原則だけで読んでいく」といった読書だっただけに、伊藤先生のこの文章にシビレテしまったのですね。

時間がないから、つまんない本は置いておこう、という姿勢から、古今の名作くらいは死ぬまでに読んでおきたい、という姿勢に変わるまで、ほんの少しの時間しかかかりませんでした(笑)
といっても、古典だの純文学だのはさすがにもう勘弁なので、SFの名作を読む、これなら出来そうだと判断し、さっそく本年の目標「名作SFの読破」がでっち上げられたわけです。

あわて者の常で、飽きっぽい私のこと、年末にはこの記事のこともすっかり忘却して「快不快だけの読書」に逆戻りしている可能性のほうが大なのですが、一応、年の初めのためしとて、こんな目標を立ててみました。

自分の好みというものが分かってくるにつれ、いろいろなことで冒険をしたり、新しいものに興味を持たなくなってきたりするものです。私の読書も、かなりマンネリになってました。
2009年は、ちょっと傾向を変えてみようかと企んでおります^^;

(と言っても、古野まほろまでは冒険できませんが(笑))