泉鏡花 『天守物語』 時代物、大好き~その2~
時代物大好き、第二弾。
もとより時代物を読まない私が無謀にも泉鏡花などを選んでしまったため、大変なことになり、かくも記事が遅くなってしまいました。しかも、鏡花の文章、記事を書こうとして読み直すたびに、引き込まれ読み耽ってしまうという難物でありました。
今回は「海神別荘」「天守物語」「夜叉が池」など、妖異の美しき男女と、人間との恋が描かれた作品が収められた「鏡花集成」を読み、鏡花の美文を堪能いたしました。
少女漫画に多大な影響を与えた鏡花の世界ですが、花郁悠紀子、木原敏江、わたなべまさこなどが代表格でしょうか。 最近では波津 彬子 の「鏡花夢幻」が、漫画の手法で原作の美しさ、妖しさを表現しているようです。(未読><) 波津 彬子 氏は花郁悠紀子氏の妹だという衝撃の事実も知り、(私だけかも^^;)ますます、「鏡花夢幻」を読みたくなってしまいました。現代の漫画の世界まで影響を及ぼすとは鏡花自身も考えたことはないでしょう。 また、最近の舞台では小栗絢が「天守物語」の図書之助を演じるなど、若い世代にもアピールする物語として生き続けていますね。
「たけなす黒髪、片手に竹笠、半ば面をおおいたる、美しく気高き貴女、天守夫人、富姫」 「貴女の面、凄きばかり白くろう長けたり。」 妖しく美しい魔界の麗人の登場です。 天守を守る夫人の眷属たちも各々個性的で魅力的。 薄(すすき)、女郎花(おみなえし)、桔梗、萩、撫子(なでしこ)、葛。秋の草々の名前を持つ侍女たち。 その侍女たちが天守の欄干から五色の絹糸を巻いた糸巻きに、金色銀色の細い棹を通して白露を餌に秋の草花を釣り上げる様は、夢のような美しさです。 そこへ、猪苗代の亀ヶ城より空を飛んで尋ねてきた亀姫が登場。年のころは二十歳あまりの美しい少女のような姫君。 引き連れたお供は、赤ら顔に大山伏の扮装(いでたち)、頭に犀のごとき角一つはやした朱の盤坊。 古びて黄ばめる練衣、あせたる紅の袴にて従いたる舌長姥(したながうば)。 「亀姫、振袖、裲襠(うちがけ)、文金の高髷、扇子を手にす。」 仲の好い姉妹のように二人は微笑を交わし、戯れるように言葉を投げあい、さながら言葉の花が蝶のように飛び交います。 その亀姫よりのお心入れの土産がなんと・・・。 山伏姿の朱の盤坊、首桶を取り、色白き男の生首を取り出だします。(その首、血だらけ) しかし、妖異の姫をはじめ、その眷属ら、驚きもせず 「血だらけはなお、おいしかろう」 なんてことまで申します。 しかし、こぼれた生き血で床が汚れまする、と舌長姥がしゃしゃり出て 「汚穢や(むさや)、見た目に汚穢や。どれどれ掃除して参らしょうぞ。汚穢や(ぺろぺろ)、汚穢の。(ぺろぺろ)、汚穢やの、汚穢やの、ああ、甘味や(うまや)」 まるでマクベスの魔女たちのよう。 「きれいはきたない。きたないはきれい。」を髣髴とするもの凄さ。 魔性の者らが天守で楽しく歓談しているとき、下界を見れば姫路の城主、家来らを引き連れ大騒ぎで鷹狩に出かけて行きます。 その様子をみた富姫は、生首のお礼にと、城主の持つ日本一の白鷹を天守に呼び寄せると、 「この鷹ならば手毬もとりましょう。たんとお遊びなさいませ」 と亀姫に差し上げてしまいます。 それがきっかけとなって、若き鷹匠、姫川図書之助が白鷹をそらした咎を受け、この天守へとやってくる。 出会った二人はたちまち恋に落ちてしまいます。 「美丈夫、秀でたる眉に勇壮の気満つ。黒羽二重の紋付、萌黄のはかま、臘鞘(ろざや)のの大小にて、姫川図書之助登場。」 雪洞(ぼんぼり)の仄かな明かりのもとで、互いの美しさ、凛々しさに心を打たれます。 図書之助の消えてしまった雪洞に明かりを点けてやりながら 夫人「帰したくなくなった。もう帰すまいと私は思う。」 図書「ええ」 下界の武士の世界に生きている図書之助、富姫を振り切るように一度は帰ろうとしますが、城主の理不尽な仕打ちに追われるように再び天守へと逃げ戻ります。 「鷹には鷹の世界がある。霜露の清い林、朝嵐夕風の爽やかな空があります。決して人間の持ち物ではありません。」 天守夫人のせりふは、鏡花の封建的な社会に対する反発を代弁しているのでしょう。 人が作った愚かしい掟の醜さ、卑しさを、妖異の世界、自然の中に息づき、自然の理りのなかに潜む神秘的な存在と対比させています。 他の鏡花の作品と同じく、「天守物語」でも、人間の理屈はその神秘な存在の前に敗れ去ります。
城主と侍、男と女、人と鷹。
鏡花の筆は、天の下にはどちらの存在も自由であり、支配せず、支配されない関係であることを妖しき存在である天守夫人に語らせるのです。
魔性の美しき存在=自然と、人間の欲、エゴイズムを対比させ、さらに当時は一段低い者として貶められてきた女性も、一人の平等な存在として捉えている鏡花に驚きを感じました。
明治の作家ですが、その自由な感性は現代でも一読に値する、普遍的な作品を残した方だと思います。
明治の作家ですが、その自由な感性は現代でも一読に値する、普遍的な作品を残した方だと思います。