ローレンス・サンダーズ 『魔性の殺人』

サイコサスペンスというジャンルは、今では当たり前になってますがこの小説が出版されたころは、かなり衝撃的な内容だったと思います。
上下巻あわせて1000ページを超える大作ですが、その面白さ、ページをめくる手がもどかしいくらいです。

霧雨に煙る早朝、ニューヨークの路上で発見された男の惨殺死体。その後頭部に残された異様な傷跡を見て、251分署の署長ディレイニーは凶器の割り出しを進めた。
そんな折、市警本部内での権力闘争が激化、彼は病床に臥した妻をかかえつつ、独力で捜査を続行せねばならなくなる。
だが彼の苦闘をよそに、内なる魔性に操られた殺人者は、深夜の街を徘徊する。
次の犠牲者を求めて。


「人を殺せば、その人と一体になれる。殺人は愛だ、究極的な愛の行為だ」
この恐るべき考えに基づき、犯人は凶行を繰り返していた。一方、綿密な捜査の末、凶器の割り出しに成功したディレイニーは美術館の元管理人、被害者の妻などの助けを借り、その販売経路を追跡する。そしてついに、殺人鬼の正体を暴き出すのだった。殺人へと駆り立てられる犯罪者の心理と警察官の執念を、迫力溢れる筆致で描き上げる渾身の大作。
(上下巻裏表紙のあらすじより)

この小説の魅力はロジックやトリックではありません。ハヤカワのNV(ノベルズ)に収められている通り、警察小説のジャンルに分けられていると思います。
狂気に駆られた犯人を警察官の執念がまるで獲物を追い詰めるようにじわじわと迫っていく過程が見所なのです。
作者ロレンス・サンダーズは殺人者と警察官双方の立場から緻密な筆致で書き上げています。どちらの側にせよ、サンダーズの筆は神の視点となり心理や独白を微にいり細を穿って書き込まれます。

そして、もう一つの主人公、それは1970年代のニューヨークの街です。
そこに棲息する怪しげな人々、セックスショップのオーナーや謎めいた大富豪の姉弟モントフォートなど。
そして、警官や主婦や退職した老人たち。その上に降りかかる災い。
様々な人生が交差する巨大な街、それが本編の第二の主役です。

殺人鬼ダニエル・ブランクの目に映るニューヨークの街はこうだ。
毒におかされた都市はいま、狂気の踊りをよろめきながら踊っていた。どんよりとした太陽が、無意味な世界の上に照っていた。夜ともなれば、人はそれぞれ鉄格子の中にわれとわが身を閉じこめて、鉄の檻ののなかで生きながらえることを願った。身をちぢめて自らの正気をわずかに囲い、雑踏する街路を行くときは、絶えず肩越しに目を配って、最初の一撃を、自らの刃で切り返そうと構えていた。

鉄とクロームとガラスでできた高級マンションに住むブランクの心象風景らしい、人間味のない張り詰めた街の風景です。
対象的にディレイニーの目を通してみたニューヨークの街はこうです。

街は一夜にして変った。近所の顔見知りが姿を消し、新しいレストランが開店し、煉瓦がガラスに変り、三階建てが三十階建てになり、アイルランド風の古いバーがあったと記憶するところに小さな公園が出現する。これがディレイニーの生まれ育った町だった。故郷だった。腐蝕する町の姿を自分以上に知っている者があるだろうか。彼はしかし、絶望はしなかった。この町は耐え忍び、そしてより美しく変っていくのだ。

街への愛着と愛惜、そして変り行くことへの希望が見えてきます。ディレイニーの家は251分署の隣に建つ褐色砂岩の古い屋敷で、巣立っていった子供たちの成長を示す傷のついた柱や古びて使い込まれてはいるけれど、居心地のいい居間やキッチンが彼を慰めてくれます。

このディレイニー署長の魅力的なこと。大柄でどっしりした熊のような外見。まだ、ハンサムな面立ちを残してはいますが、古代ローマ人の彫刻のような「崩れ行く尊厳」を秘めた顔立ち。
豪胆で緻密、あだ名は「鉄の睾丸」。
ホンブルグ帽を目深にかぶり重々しい足取りで着実に犯人を追い詰めていきます。

あまたの探偵のように神のような推理力ではなく、地道な捜査の積み重ねとその中で初めて勘に頼る推理を働かせます。
そう、リアルな警察の捜査と変らないのですが、それがどうしてこうもスリリングに描かれるのか。
人間を知る、そしてそれを動かす、これがディレイニーの真骨頂です。
鋭い観察眼、長年培った人間の心の襞を知る能力。ディレイニーの警察官としての経験や教訓が人を動かし小さな事実が重なり合って一つの方向を示していく。
読者は、犯人になったようにディレイニーの執念に満ちた重い靴音を背後に聞くことでしょう。
ストーリーは骨太でいて細心。
私のミステリベスト10に入る傑作です。

追記:
ディレイニーが調べ物をする時にいつも書斎に持っていくのが、1本のエールとサンドウィッチです。
捜査の合間や打ち合わせのときには、アイルランド風のバーでライ・ウィスキーのハイボールを飲んだり、ラムチョップや牡蠣に舌鼓を打ったり。
美味しそうなニューヨークっ子のランチが(目だけですが)味わえますよ。