西条八十 『帽子』

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。 


森村誠一の「人間の証明」は、彼がこの詩を読んで触発されて書いた作品だそうです。

 一冊の詩集と謎の言葉を残して死んだ、一人の黒人青年。物語は、日本各地と米国をまたに架けた壮大なスケールで展開。現代に生きる様々な人々の悲しみと痛みが交錯しあい、複雑な人間模様を織り上げていきます。
 家族の絆とは? 国とは? 正義とは? 愛とは?
 人間にとって本当に大切なものは何なのか?
 今、あらためて問い直す問題作です。
                        フジTVドラマ紹介文より