宮下奈都 『羊と鋼の森』

イメージ 1

内容紹介
ゆるされている。世界と調和している。
それがどんなに素晴らしいことか。
言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。

「才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。(本文より)」

ピアノの調律に魅せられた一人の青年。
彼が調律師として、人として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った、祝福に満ちた長編小説。


宮下奈都、初めて読む作家です。

収穫でした。本屋大賞ということで、書店ではあちこちで平積みになってました。

ベストセラーには厳しいひねくれ者の私でも、この本がたくさんの人に読まれることを願わずにはいられません。

ピアノの調律師というあまり馴染みのない世界を描いたこの作品。
タイトルの羊はピアノの弦を叩くハンマーのこと。羊毛のフェルトでできています。鋼は言うまでもなくピアノ線。弦のことですね。

調律するときピアノの蓋を開けると、ハンマーと弦が整然と並ぶ「森」が姿を現します。

物語は主人公の青年が、この森へ足を踏み入れ、深く尽きない森の中をさまよいながら自分の進む道を見出していく、そんな成長の過程を優しくあたたかな目線で描いています。
ピアノに関わる職業の中でも、地味で注目されにくい分野ですが、ここに登場する調律師たちが厳しい修行と、鍛錬を果てしなく続けるところは、ピアニスト、作曲家などとは違った面で、奥深い果てしない芸術性を持っていることを知りました。

クラシック音楽や楽典に疎くても、「ラ」の音が440ヘルツだと初めて知っても、この小説が持つ不思議な力はちゃんと伝わってきます。

主人公、外村が出合う人々。

天才的な調律師、板鳥さん。

かわいらしい双子の女子高生、和音と由仁。

上司の柳さん。

彼らとの会話は日常の一幕、普段の情景ですが、また大きな比喩にもなっているようです。

芸術や美、哲学的な命題をこの小説は調律を通して、実に巧みに解き明かしてもくれます。

淡い恋の情景や、力んで失敗してしまう恥ずかしい記憶、ピアノ演奏の感動。

一つ一つが、静かで優しい筆致で語られるにも関わらず、読み手の中に芸術の森の尽きせぬ魅力を密やかに深く沈めていきます。

幸せな音、幸せなピアノ。外村は調律を通して、「美しい」という未知の喜びを知ってしまうのです。
板鳥さんの言った理想の音に関する次の一文は、人生のいろいろな側面できっと指針になるでしょう。

明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深い文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体

原民喜が自分が憧れる文体について語った言葉。
こんな音を天才調律師は求めているのです。

憧れて、追い求めて、日々地道に努力を重ね。
でも、見合う結果を得られるものは、ほんの一握り。
そんな深く恐ろしい森に入り込んだ人間の弱さ、小ささ、そして尊さや気高さをすっと染み込むように伝えるこの作品。
若い途上にある人たちにぜひ読んでほしいと思います。